初めまして!
キヤノン専門、プロカメラマン専門のメンテナンス&チューニング会社【PDA GALLOP】代表の山下亮と申します。今月から6回に渡り連載を担当させていただきます。宜しくお願い申し上げます。
不景気、天災、コロナ…
様々な問題が、ビジネスだけに限らず私達の生きる現代にも容赦無く降り掛かってきます。
弊社もそんな荒波の中を何とか生き残ってきました。この連載では弊社のスローガンでもある「常に考える。何故だろうから仕事は始まる。」をテーマに、弊社の取り組みから何か一つでも皆様のお役に立てる事があればと思っています。
PDA GALLOPは元々、キヤノンオンリーの正規修理代理店として今から30年程前にキヤノンの下請け修理業者としてスタートしました。
私がこの会社に入社したのは今から23年前になります。
完全歩合制で頑張れば頑張るだけ稼ぐことが出来るという求人広告を見て応募しました。バブルは既に弾けてはいたものの、まだまだカメラも売れ続けていて仕事は山の様にあった時代に入社し、一技術者として働き始めました。
当時から長きに渡りキヤノンはカメラ業界のシェアNO1を守り続けていましたので、修理業界も”どうやって売上げを上げるか?” しか誰も考えておらず、”仕事が無くなるかも?” なんて事を不安に思った事など一度もありませんでした。
それは当時の経営者達も、同業者達も同じだったと思います。正に「親方日の丸」だと皆が信じていました。
しかし、それから10年程経ち、中堅技術者となった私には何となくその安定に陰りが見えてきた様に現場で感じていました。
そしてその不安はその7年後に的中します。
2015年をもって約50年続いたメーカーと下請け修理会社との修理代行契約が終了することになったのです。
メーカーは大分に作った巨大な工場内で自社による修理業務の内製化に完全シフトし、日本にあったキヤノン専門の下請け修理会社は全て仕事を失うことになりました。その正式な通知が来たのは同年6月。施行は12月。最後通告から半年で新しい仕事を見つけなければいけない状況になり、結果多くの下請け修理会社が廃業に追い込まれることとなってしまいました。
しかし実はその時、私はその決定をずっと待っていました。
一中堅技術者だった私は、当時の経営陣達が私の感じていた「不安」を信じてくれない事に痺れを切らし、夏季休暇を使い、自腹で単身、当時急成長していた中国の北京に視察に向かいました。
何かヒントがあった訳ではありません。とにかくこのままではいけない!という焦りだけで、まずは勢いのある中国の修理事情を見てみようと向かったのですが、そこで見た光景に愕然としました。
なんと、私が北京に来る半年程前に中国ではメーカーによる修理の内製化が完了しており、既に下請け修理会社は壊滅状態となっていました。何も得る物はありませんでしたが、漠然とした不安は確信に変わりました。この光景を日本で見る事になるのも時間の問題だ…と。
帰国後、社内ベンチャーと言えば聞こえは良いですが、勝手に新しいサービスの模索と実験を始めました。
もう誰にも分かって貰えなくていい。経費も自分持ちでまずは結果を出して認めさせるしか無い。
私の目には経営陣からの許可や理解より、来たる “その時” に向けた準備しかありませんでした。
そして今から6年前、下請け契約終了の年の12月にメーカーのサービスセンターの近くにあった本社から、3倍の広さの現、箕面本社工場に移転。同年代表取締役に就任し、メーカーの本社がある品川に本社移転と代表就任挨拶を理由に伺いました。
メーカーさんは仕事が無くなるのに移転したと言う知らせは規模縮小の挨拶、私の代表就任は前経営陣の離脱によるものだと思ったと思います。
でも私の本当の訪問理由はずっとそのタイミングを伺っていた “ある事” を伝えにいくためでした。
「PDA GALLOPは今後キヤノンを使うプロカメラマン専門のメンテナンスと、”チューニング” というサービスを初めます。」
これは世界でも弊社だけ、どこよりも高い精度規格で機材をチューニングするという、捉えようによってはメーカーに喧嘩を売るようなサービスでした。
しかもその集客方法はB to C、FacebookなどのSNSを駆使し、完全にプロカメラマンからの直接依頼によりおこなうもの。
世界中の正規ライセンスを持つ修理会社は何かしらどこかの下請けとして修理をいただいていますので、脱下請けする修理会社も世界初。
とにかくサービス内容から集客方法まで全てが世界で初めての方法だったので、もちろん通常メーカーが許す筈はありません。
でも私が待っていた “その時” は違いました。
もう我々はメーカーの加護の下にいない、100%だった仕事を全て切られた身です。
道理上、我々が他のサービスを探すことを止める理由はその時のメーカーにはありません。
あの北京から帰って既に7年が経っていました。
業界の歴史から見れば、50年続いた安泰の仕事が一瞬で消える悪夢の様な瞬間でした。
しかし私にはこの瞬間を逃したら後にも先にもこれを上回るタイミングは無いと思える最高のタイミングだったんです。
あの最悪の瞬間が、新生PDA GALLOPにとってはスタートラインとなりました。
しかし、そこまで考えて準備しても全てがうまくいく訳ではありません。決死のメーカー本社訪問の結果は思いがけない物でした。
次回はその後の取り組みについてお話させていただきます。
※ラボネットワークメールマガジン2021年2月号の記事を再掲